自由

女の形で生まれ、女の機能を持ち、女性ホルモンが分泌される。それは形の上でそうしておくと都合がよいからです。種族の繁栄という全体の都合上の話です。でもほんとうのところ、男と女の区別はないのです。肉体は簡単には脱げないので、その人そのものだと認識しがちですが、そうではありません。

看護師さんはナース服を着ていますが、人によっては医師免許を持っているかもしれない。今はたまたまナース服を着ているから看護師の仕事をしますが、診察も手術もできるのですよ。と、そんな感じのことなのです。

 

緊縛を趣味とする、ある女性は語る。

「半刻ほど女性を抱いた。そのとき己の内部から男性が立ちのぼった。自分のなかの男性性は、彼女を守りたい気持ちになった」

それはとても自然なことです。男女とは単なる立ち位置であり、相対的なものなのです。

 

サイキック能力の素晴らしい、ある女性は語る。

「わたしの彼は、女性の肉体を持っている」

彼女は、肉体の形ではなく内部に宿る男性を認識している。彼女の視線が合わせている焦点のその素敵さといったらたまらない。既成概念にとらわれないその強さを知ると、人間の可能性を感じ、勇気がわいてくる。

 

タロットリーディングと俳優を生業とする、ある人は、体の形は男性なのだが、どうしても女の子としか思えない人である。女っぽい服装とかヘアメイクとかは一切していない。女言葉とかシナを作るとかもない。存在感そのものが女の子なのである。

彼女(と自然に呼んでしまう)は混乱の幼少時代もあったそうだが、大人になるにつれ、自分なりに立ち位置を見つけ、素敵に暮らしている。その凛とした存在感のゆるぎなさは、神々しくさえある。

 

男女だけの話ではなくて、これはすべてに通ずる話です。

たとえば、健康であることと病気であることの境目はどこにもない。普通に暮らせるけれど、疲れがちである。疲れがたまった人がコリや痛みを感じはじめる。放置すると痛みや不調がすすみ日常生活がうまく運ばなくなる。日常生活に支障を感じる。病院に行くと病名を言い渡される。

みんな繋がっている。ほんの少し違う状態の連続なのだ。

 

猟犬と番犬にだって境目はない。

猟を続けた結果、追う性質が培われ、穴倉に入りやすい体型になったビーグル。

玄関に飼われつづけた結果、人を見る目が養われ、訪問者の対応が得意になり、声で知らせる能力が身についた柴犬。たまたまそうなっただけで同じ犬という生き物なのだ。

 

花は花の名前を知らない。気候と環境に合わせて生きているだけである。自分の色や形を知る由もない。

 

わたしは、女としての楽しみを味わうのが大好きです。おしゃれをしたり、住まいをしつらえ料理をしたり、縫い物をしたり、愛するものを癒したりするのが好きです。そして男性に愛されるとほんとうに幸せ。

けれど、女性はこうあるべきなんてイメージにはめられるのは苦しかい。

男性より目立たないように自分を抑え、自分でできることさえ男性に頼るのが良しとされたり、誰かに植え付けられた価値観に抗いきれず屈するとき、心の中に小さな濁りが生まれる。それがたくさんたまるとお腹が痛くなったり体に力が入らなくなったりした。

 

はっきりとわかることがあります。わたしが生まれてきた理由です。

自由になるためでした。記憶を辿れば古くは幼稚園のころからすでに

強く願い続けてきたことでした。わたしが本当の本当に自由になったとき、きっと動物も鳥も花も人も、それぞれの内部で自由を獲得するのではないか。それを見たいのです。

自分をはじめとする(これ重要)、愛するすべての存在の、本当の誕生を見ることが、この人生で一番したいことなのです。